日産グローバル本社で刻まれた「FOREVER」 詳細ページ(28787) - イベント・レースレポート

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日産グローバル本社で刻まれた「FOREVER」




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記事提供元:turunpike
 

R35 GT-Rが正式に生産終了を迎え、さらに差し迫った課題も山積するなか、日産のフラッグシップを継ぐ後継モデルの話題は、ひとまず後回しにされる――そう考えるのが自然だろう。
 

しかし先週末の3日間、日産はよりコアなファンに向けて、間接的ながらも小さな合図を送った。それは一種のうなずきであり、ほのかなヒントでもあった。「今は正直、厄介な問題をいくつも抱えている。でも心配するな。自分たちがどこから来たのか、そして何をすべきかは分かっている。」
 

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そのメッセージは、確かに届いた。実際、日産グローバル本社内の日産ギャラリーには、1日あたり1万人を超える来場者が押し寄せ、「FOREVER」と題されたイベントをその目で確かめようと集まった。展示内容は、1969年のKPGC10ハコスカから2024年式R35 GT-Rに至るまで、ほぼすべての姿を網羅したスカイラインGT-Rの祝祭といえるものだった。将来の“R”に関する直接的な示唆は一切なかったものの、会場全体には確かな高揚感と、どこか期待を抱かせる空気が漂っていた。
 

日産がこうしたイベントを行い、次世代スカイラインは原点回帰としてマニュアルになるという噂まで重なれば、テクニカルセンターの内側で何かが確実に動き始めていると考えずにはいられない。実際、展示はギャラリーエリア全体を文字どおり占拠し、唯一例外だったのは、オールニューの電気自動車・日産リーフと、その隣に並べられた、よりスポーティで洗練されたオーテック仕様が展示されていたメインステージだけだった。
 

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ラインアップは実に理にかなった構成で、中央には2ドアクーペのハコスカ、そしてその後継であるケンメリKPGC110が並び、ちょっとしたノスタルジートリップへと誘ってくれる。もちろん、スカイラインの歴史は1957年にプリンスが発表したALSID-1まで、さらに10年以上遡ることができるが、「FOREVER」の主役はあくまでGT-Rだ。1970年代の2台のGT-RはいずれもS20型エンジンを搭載。高回転型の2.0リッターDOHC直列6気筒で、そのルーツはプリンスR380レーシングカーを駆動したGR-8エンジンにあり、1966年に日産と合併する以前のプリンスブランドとの直接的な繋がりを感じさせてくれる。
 

GT-Rの第2章が幕を開けたのは1989年のこと。プロジェクトを率いた渡辺孝三のもと、BNR32スカイラインGT-Rが世界に向けて発表された。ポルシェ959に代表される1980年代のハイエンド・パフォーマンスカーにインスパイアされ、強烈なインパクトを与える存在として、そしてモータースポーツで結果を残すために生まれた一台であり、その狙いは見事に的中することになる。
 

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各世代の市販モデルに並んで、日産は象徴的なマシンも展示していた。GT-Rが国内レースでの成功を確立するきっかけとなったPMC・S仕様の4ドア・ハコスカや、1970年代のオイルショックの影響で実戦投入されることなく終わった1972年式ケンメリのレーシングカーなどだ。だがR32は、日産にとって国際モータースポーツで栄光を掴むための切符となり、スカイラインの名を日本国外へと一気に広める存在となった。
 

その評価が最初に確立されたのがオーストラリアだった。圧倒的で止めようのない勝利を重ねたことで、このクルマはすぐさま「ゴジラ」と呼ばれるようになる。しかし、その快進撃は新たなレギュレーションによって、意外なほどあっさりと封じ込められてしまった……。
 

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最初の進化が訪れたのは1995年、BCNR33の登場によってだ。ここでもプロジェクトを率いたのは渡辺孝三。非公式ながら、ニュルブルクリンク北コースで7分59秒という8分切りを達成した、史上初の市販車とされている。また、この世代はGT-Rとして初めてル・マンへと挑戦し、同時に国内ツーリングカー選手権での支配的な強さも継続していった。
 

オーテックはこのR33を用い、スカイライン誕生40周年を記念した4ドアGT-Rの限定モデルを製作した。そして1999年3月、時代はBNR34へと移る。ここでもプロジェクトを率いたのは偉大なる渡辺孝三で、この頃には水野和敏を迎え入れ、RB26を積むGT-Rの第三の進化を完成へと導いていった。
 

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R34は先代までの成功を確かなものとして受け継ぎ、真の後継モデルであることを結果で証明した。1999年のJGTC GT500クラスでは、エリック・コマスと本山哲がドライブしたペンズオイルGT-Rが優勝。この勝利は今なおGT-Rファンの間で語り継がれる伝説であり、なんとその実車が今回の展示でサプライズ登場していたのだ。
 

R34が2002年8月に生産終了となってから、次世代GT-Rが姿を現すまでには、さらに5年の歳月を要した。そして登場したR35 GT-Rは、日本専売モデルとしてスタートし、今年初めまで実に18年という驚異的なライフスパンを誇った。何より驚かされるのは、最終進化に至るその瞬間まで、現代の最新パフォーマンスカーとほぼ互角の戦闘力を維持し続けていたという事実だ。それは、水野和敏氏が日産の持てる最高峰のエンジニアとイノベーターを集め、自由な裁量のもとでチームを編成できたからこそ成し得た偉業にほかならない。
 

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会場の一角には、2003年のZ-tuneや2012年のNISMO GT-R開発車といったNISMOモデルが並んでいた。量産車をベースに、そのポテンシャルを極限まで引き出す…日産モータースポーツ・インターナショナルが持つその才能を端的に示す、まさに理想的な組み合わせだ。
 

ペンズオイルR34の隣に展示されていたのが、2003年式GT500 MOTUL GT-R。これはJGTCで走った最後のR34でもある。なぜ黄色×黒のマシンとはこれほどまでに姿が異なるのか。それは2003年当時、日産がすでにフェアレディZへの移行を進めており、この最終型GT-Rがそのためのテスト車両として使われていたからだ。
 

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MOTUL車の低く、押しつぶされたようなフロントエンドの奥には、2004年以降フェアレディZを支えることになるVQ30DETTツインターボV6のレーシングエンジンが隠されていた。そして本イベントで展示された最後のレーシングカーが、2015年のバサースト12時間に参戦したR35 GT3。FIA GT3レギュレーションの採用によって、GT-Rが世界各地の数多くのシリーズで戦えるようになったことを象徴する一台であり、GT-Rのレースストーリーを現代へとつなぐ存在でもある。
 

GT-Rが姿を消したことを、寂しいと感じるだろうか。確かにそうだ。だが、このパフォーマンスカーは世代交代を周期的に重ねてきただけでなく、新しいモデルが登場するたびに、その進化は常に想像を遥かに超えるものだった。
 










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