あのJUNアキラ・スープラを覚えているだろうか?
記事提供元:SPEEDHUNTERS
記者:Brad Lord
誰にでも、車への愛着を掻き立てたり、興味を向かせてくれる動画があります。
いくつか思い浮かぶけれど、特に記憶に残っているのは、JUNが製作した鮮やかなイエローの80スープラが筑波サーキットでパワースライドを決める、あの21秒の映像だ。どこで最初に見たのかは覚えていない。でも、2001年——YouTubeが生まれる4年前に、そのブートレグ動画を必死にダウンロードしていた自分がいた。ある意味、懲役25年を覚悟した行為だった。
だからこそ数年後、JUNの入間工場の向かいにある砂利の駐車場で、まさにそのクルマと思われる一台を見つけた時の喜びといったらなかった。
当時の自分は知らなかったけれど、実はそのスープラこそが、2001年後半に『Max Power』や『Super Street』の表紙を飾ったあのマシンだった。少しだけ姿かたちは違っていたが、あのクルマはアメリカ・ユタ州のボンネビル・ソルトフラッツで、なんと401.20km/h(249.292mph)という驚異的なトップスピードを叩き出していたのだ。
なぜ自分がその場にいたのかというと……1999年に話はさかのぼる。JUN Auto Mechanicの代表、小山「ゴッドハンド」進氏が、JUN製のスーパーチューンド・インプレッサGC8(580ps)を引っさげて、ニュージーランドで行われたOptionスピードトライアルに参戦した際、現地でお会いする機会があった。そのマシンは、凹凸のあるウェット路面でも309.1km/hを叩き出すほどのモンスターだった。自分はそのとき、「いつかJUNを訪れたい」と強く思い、2004年に日本へ行く夢を叶えた。
それから20年以上経った今でも、東京・練馬のJUN本社と埼玉のJUN Auto Works/Auto Mechanicを、創業者である田中純一氏から直接案内してもらったことは、心から誇りに思っている。
スープラとじっくり向き合う時間はなかった。日は暮れかけ、東京へ戻る電車の時間が迫っていた。それでも幸運なことに、駐車場の隅にクルマを移動してもらい、数枚の写真を撮ることができた。
JUNの創業は1980年。しかし、その親会社の歴史はもっと古い。戦後間もない1946年、田中氏の父が旧日本軍の航空機用機械を自動車用に転用する形で田中工業を設立。やがてチューニング業界に進出するにあたり、小山進氏という若き才能あるメカニックをヘッドとして迎え、JUN Auto Mechanicが誕生した。
JUNの中核にあったのは、最新のターボチャージャー技術。その技術力を武器に、JUNは日本最速・最強クラスのマシンを次々と作り出していった。1980年代には、Option誌が主催した谷田部テストコースでの最高速チャレンジが大きな目標となり、小山氏はここでその手腕を発揮する。1990年にはボンネビルへの挑戦も始まり、さまざまなマシンを世界の舞台に送り出す。2001年、JUNは『アキラ・スープラ』を引っ提げて、再びソルトフラッツに舞い戻った。このマシンは、1993年式トヨタ・スープラRZをベースに、3年前から製作されてきたデモカーだった。
ボンネビルの「200mphクラブ」に名を連ねるマシンの多くは、パイプフレームで構成された専用設計のレーシングカーだ。しかしJUNのスープラは違った。あくまで改造されたストリートカー。そこに必要最小限の「速く走るための装備」を加えたり外したりして、400km/hという壁に挑んでいた。
ちょうどその頃、JUNがアメリカでアキラ・スープラを走らせていた時期、日本では筑波でドリフトを決める映像がネットで話題になっていた。今では2000年に発売された『ビデオオプション Vol.76』からの抜粋と判明しているが、当時は出どころも分からず、ただただ衝撃だった。振り返れば、日本のチューニングシーンから誕生した最初の「バイラル動画」だったのかもしれない。
数年前、Optionがその3分間の映像をYouTubeで正式公開してくれた。そこでようやく、そのスープラが筑波で全開アタックに挑み、クールダウン中にテストドライバーの山田英二(ターザン)が遊びでドリフトを決めていたことが分かった。
あの映像を初めて観た直後、友人が2000年頃の『ビデオオプション』のVHSを貸してくれた。画質は荒かったが、アキラ・スープラが東京湾アクアラインを300km/h超で駆け抜ける姿が映っていた——あの時代の“湾岸最速”の象徴だ。
ボンネビルでの活躍を知る前から、アキラ・スープラは当時の日本のチューニングシーンが持つ魅力をすべて体現していた。ストリートカーでありながら、時速300km/hを軽々と叩き出し、しかもドリフトまでできる。エンジンは2JZ-GTEを3.2Lにスープアップし、JUNの試作クランク、鍛造ピストン・コンロッド、ハイカム、T88タービンを装着。ミッションは当時としては珍しいシーケンシャル。そして機能美あふれる外装、そして鮮やかなイエローペイントが、まさに「JUN」だった。
ボンネビル仕様では、2JZエンジンを徹底的に強化。エンジンベースの補強に加え、TRUST/GReddy製SPL T78-29D-14cmツインターボ、JUN試作インテークマニホールド、120L燃料タンク、Bosch製モータースポーツ用ポンプ5基、JUN製890ccインジェクター12本というフューエルシステムが組まれた。制御はHKS F-CON V Pro。最終的な出力はほぼ1,400ps(1,380hp)に達していた。
ミッションは6速ホリンジャー製シーケンシャルを継続使用し、ファイナルギア比は2.238:1に設定。空力面ではスチール製のフルフラットアンダートレイも装備され、E/BGCCクラスにおいて2本の走行平均で240.192mph(386.55km/h)を記録。片方の走行で401.20km/hを叩き出したことが、今でも語り草となっている。
ボンネビルから戻った後、このスープラは再びストリート仕様に戻された。TRUST/GReddy製T88-34D-22cmシングルターボ、マイルドなヘッド周り、簡素化された燃料系、そして扱いやすいファイナルギアに変更され、ブースト1.7bar(約25psi)で最大950ps(937hp)を発揮。その仕様こそが、今回紹介した姿だ。
JUNが描いたアキラ・スープラの原点——それは、90年代後半から2000年代初頭のチューニングスタイルそのものだ。JUN製のフロントバンパー、ダクト付きボンネット、エアロミラー、GTウイング。そしてRE雨宮製のリアディフューザー。さらにボンネビル仕様と同じアドバンModel 6の18インチホイールに、横浜アドバンのセミスリックを履かせて完成されていた。
ボディを切断することなく製作されていたため、ストリート仕様への復元も容易だった。CUSCO製10点式ロールケージ、RECARO SPGシートといったレース装備が残りつつも、フルダッシュ、カーペット、内張りなどの快適装備も搭載。GReddyメーターやSTACK製デジタルダッシュ(8100)も当時のままだ。
2004年にこのクルマと出会ってから、しばらくの間、情報は途絶えた。ずっと駐車場に眠っていたのだろう。2011年、JUNはこのマシンをフルリフレッシュ。シルバーに再塗装され、黄色とオレンジの新グラフィックをまとい、サーキット仕様として復活した。
それから2年後の2013年初頭、JUNはこのスープラを売りに出した。だが実際に買い手がついたのは、2014年の終わり。この内容で1年以上も売れなかったなんて、今考えると不思議だ。というのも、価格は税抜き600万円——今のレートで約4万ドル。
このクルマがどこへ行ったのか、今でも気になって仕方がない。ネット上では「オーストラリアに渡った」との噂もあるが、確認は取れていない。今の姿を知っている方がいれば、ぜひ教えてほしい。
間違いないことがひとつある。それは、日本で生まれた数多のチューニングカーの中で、このJUNスープラが最も偉大な存在かもしれないということだ。まさに唯一無二のオールラウンダー。
残念ながら、田中代表は2019年、76歳で逝去。そして小山氏も長年の闘病を経て、2022年にこの世を去った。彼は2009年〜2010年に「Koyama Racing Labo」を立ち上げ、最後まで戦い続けていた。ふたりのレジェンドはもういないが、アキラ・スープラのようなマシンがある限り、JUNの魂は永遠に生き続ける——。