吹雪さえも止められない、グループA仕様のスカイラインGT-R
記事提供元:SPEED HUNTERS
記事:Toby Thyer
いい感じの峠と、グループAスタイルのR32 GT-R、そしてカメラのバッテリーさえあればインスタのアルゴリズムもきっと大喜びだろう。とにかく、バッテリーを忘れずに…
普段の俺なら頭だってどこかに置き忘れるほどだが、今回は違う。神奈川から三重まで、Masayuki Kaniさんとその家族に会うための片道4時間。カメラバッグの中身を念入りにチェックした。
途中、休憩がてらコーヒーとケーキを楽しみ、ヨガのポーズで背骨を伸ばしていると、Masayukiさんからのメッセージが入った。「撮影場所、雪が降り始めました。でもまだ1ミリくらいなので大丈夫かと」。
軽い雪なら問題ない。元々予定していたシビック専門チューニングショップの撮影が道路工事でキャンセルになったことに比べれば大したことじゃない……はずだった。
だがサービスエリアでMasayukiさんと合流した時には、給油待ちのクルマが列をなす中、雪は本格的な吹雪に変わっていた。世界の終わりの前の最後の撮影になるんじゃないかとさえ感じた。だったら、最高の写真を残そう。
Masayukiさんの奥さん・Erikaさん、そして5歳と3歳になる息子さんたちも一緒だ。小さな顔がリアガラスに張り付き、父親の愛車を夢中で撮る外国人カメラマンを不思議そうに眺めている。
実はこのスカイライン、家族のストーリーでもある。Masayukiさん自身がかつて後部座席に座る少年だった。父親がR32とR34に乗り、幼いMasayukiさんの目には、まるでJTCCの長谷見昌弘のような伝説的ヒーローに映っていた。
1998年から2003年にかけて、父子で富士、鈴鹿、岡山の各サーキットを訪れ、JGTCで活躍するGT-Rを追いかけていた。父親はすでに90年代初頭、グループA時代のGT-Rの連勝を目の当たりにしていた。
これぞ「日曜に勝って月曜に売る」を地でいく、まさにNISMOマーケティングの理想だっただろう。901運動を率いた久米豊さんも感激したに違いない。
1998年、父親からHCR32を譲り受け、その後すぐにBNR32も手に入れた。さらにR34を所有するも、家族の事情で売却せざるを得ず、父子ともに深く傷ついた。その悔しさが後に自身のR32を購入するきっかけとなった。
2020年、父親はこの世を去った。R34を取り戻すチャンスは二度と来なかったが、MasayukiさんにとってこのR32こそ亡き父との繋がりそのもの。父から子へと受け継がれる喜びだ。
BNR34がGT-Rの頂点だと言う人もいるが、グループAツーリングカーを制覇した本物の怪物はやはりR32 GT-Rだ。
MasayukiさんのR32は、まさに80年代末から90年代前半にかけて活躍したグループA GT-Rへのリスペクトが詰まっている。エンジンはRB26DETTをベースに、N1 24UブロックとREINIKのRB-X GT2エンジンキットを搭載。クランク、コンロッド、ピストン、メタルヘッドガスケットまで当時のグループAスペック同様の2.8L仕様だ。
過去に紹介した純さんのGT-Rと違い、MasayukiさんはグループA車両と同じツインターボ仕様を維持。エンジンルームには貴重なREINIK製鋳造アルミインテークが輝いている。
エンジン製作はJ.ing Techno Engineeringの前田仁さんが担当。前田さんはグループAラリーのメカニック経験があり、90年代半ばにF1用のV12エンジン試作を手掛けたほどの人物。まさにREINIKを除けばこれ以上ない存在だろう。
そのREINIKは現在REIMAXとして営業を続けているが、今でも「惑星一つ分」の予算があればエンジンを製作してくれるらしい。
制御はグループAの名門ブランドMoTeCのM600が担い、最高出力は660ps、最大トルクは69kg/mに達する。当時のGT-Rに匹敵するパワーは、ORC製ツインプレートクラッチを介し、CUSCOの前後LSDを通じて路面に叩きつけられる。
吹雪の中の撮影は、正直予定外だった。
本当は、ワインディングを駆け抜けて、思いきり馬を走らせたかった。
バサーストや鈴鹿に敬意を表するような、全開の疾走。
GT-Rがモータースポーツアイコンとなった、あの伝説の舞台へ思いを馳せて。
だが、あの日、三重に雪が降ってくれてよかったのかもしれない。
時間がゆっくりと流れ、その美しい静寂を破ったのは、サイドパイプから響く、グループA譲りのRBサウンドだけだった。